トリビアの泉 郵便局とのガチンコ勝負!

2004年3月中旬の平日、仕事中に私の携帯電話のベルが鳴った。電話の相手はランニング大会の企画・運営などを行っている『ランナーズ・ウェルネス』代表の坂本雄次さんで、氏からの電話は初めてのことであったのでちょっと驚いた。

「先日、関家君の知り合いから携帯の番号を間いてお電話したのですが…」

「はい、ありがとうございます」

「早速、用件なんだけど、TVのある企画の話が私に来ているので、関家君にお手伝いしていただけないものかと思って電話したんだけど、4月の予定なんかどうなってる?」

「4月は特にレースの予定など入っていませんが…」

「実は24時間ほど走ってもらうことになるんだけど、それは可能かな?」

「えっ、24時間ですか?日テレの『愛は地球を救う』みたいのを4月にやるんですか?」

「いや、番組はフジテレビの〈トリビアの泉〉ってやつで、そこの実験コーナーなんですけど」

私は今ひとつ趣旨が読み取れなかったのだが、〈トリビアの泉〉という番組はもちろん知っていたし、それが視聴率の高い人気番組であることも承知していた。しかし1週間後の3月末に台湾での24時間走を控えており、なおかつ5月の後半にオランダでの24時間走世界大会参加を予定していた私にとって、どのような形であれ4月に24時間を走るということはどだい無理な話である。企画自体面白そうだし、私のところへそのような話を持ってきてくれたことを光栄にも思ったが、私のレーススケジュールをお話しして丁重にお断りし、坂本さんにも納得してもらい電話を切った。

1週間後、台湾の24時間走に参加した。結果は150kmであえなくリタイヤ…。台湾は2001年から参加し続けた大会で、大好きなレースの一つだったのだが、参加4年目にして最低の結果となってしまった。

私自身この大会の3週間前に参加したフルマラソンの際に太腿裏側に違和感があり、これがずっと気になっていたのだが、レース途中にこの脚が悲鳴を上げるのを感じ、大事をとってリタイヤした。

このレースに参加する前からあくまでも最大の目標は5月の世界大会に置いていたので、ここで無理は禁物と判断したのだった。私としてはこのレースの結果を引きずらないように、気持ちを切り替えて2ヵ月後の大一番に臨むつもりでいた。

しかし、そんな折、台湾から帰国直後の4月の初め、世界大会のコーディネーターでもあるAkiInoue氏から1本の電話があった。

「急な話ですけど、落ち着いて聞いてください。実は5月の世界大会ですが、現地の都合により中止になりました」

私は絶句して返す言葉もなかった。Inoueさんの話によると、大会の開催地として立候補していたオランダのアペルドールンという町が、金銭的或いは人的な協力を地元から得られなかったというのが最大の理由らしい。

電話を切った後、私は虚脱感に覆われ、ただ呆然と立ち尽くすのみであった。

また「こんなことなら〈トリビアの泉〉の件、承諾しておけば良かった…」などと少し悔やんでみたりもしたが、これは少し休みなさいという〝天の声″なのだと自分自身に言い聞かせて気持ちを切り替えるようにした。

走ることに対する次の目標を見失い、精神的にも少し落ち込んでいた頃である。土曜日なのに仕事をしていた私のもとに1本の電話がかかってきた。相手は今日『富士五湖ウルトラマラソン』のレース開催中で、このレース・ディレクターでもある坂本さんだった。私は携帯の送信者の名前を見て、やや驚きながら電話に出た。

「あれ? まだレース中なのではないんですか?」

「今、表彰式の準備でひと息ついてるところなんですよ。ところで、富士五湖のある参加者から聞いたんだけど、5月の世界大会なくなったんだって?」

「そうなんですよ。ポッカリ(スケジュールが)空いちやいました」

「それならば例の〈トリビア〉の件、少し時期を遅らせても良いから走ってもらえないかな?テレビの制作側としては是非、関家君に走ってもらいたいらしいんだよ」

私としてはここまで熱く乞われて、もはや断る理由など一つもなかった。

「分かりました。バラエティの番組かもしれませんが、私自身一つのレースのつもりで走らせてもらいたいと思います」

こうして晴れて関家良一、初のバラエティ番組出演の話がまとまったのである。

 

撮影の日取りは6月後半から7月初旬辺りということに決まった。これは私のスケジュールを考慮してくれたのと、超人気番組のために次から次へと撮影のスケジュールが詰まっているので、この時期辺りまでずれ込んでしまったという事情からだそうだ。私には撮影当日まで約2カ月間の練習及び調整の猶予が与えられたということだ。

私は当初の予定通り、4月いっぱいはほとんど走らずに身体を休めることに専念し、5月の連休明けからLSDを中心に走るための身体づくりを開始した。4月は110kmに抑えた月間走行距離も5月は611km、6月も537kmと順調に距離を踏むことができ、体調もずいぷんと引き上がってきたように感じた。

坂本さんとはその後も電話で打ち合わせを繰り返した。どうやらTVの制作スタッフ側は今回の企画に関しては坂本さんに相談をし進めていたようで、私とテレビ関係者との接触は撮影当日までただの一度もなか

った。

最初は企画の内容がイマイチよく把握できていなかったのだが、坂本さんとの電話打ち合わせを何度か重ねるうちに、ようやくその全容が掴めてきた。

企画の内容はつまりこういうことだ。

★ある郵便物を相手に届けるのに、例えば同じ町内とか隣町くらいならポストに投函するよりも自分で届けた方が早い。では、郵便配達に届けてもらうより自分で届けたほうが早い距離は一体どのくらいなのか?

実際にランナーに走ってもらい、郵便配達の集配システムとの競争のなかで早く届けられる距離は何キロかを実験する。

★ユースは東京の日本橋をスタートし、国道1号線をメインに西へ向かいながら5kmごとに特設されたポストに郵便物の配達を繰り返す。そしてごランナーよりも郵便の配達が早かった時点で実験終了ということになる。

非常に単純で、ある意味バカバカしい企画でもあるのだが、結果も単純明快にハッキリと露呈されてしまうので走る側としては気が抜けない。坂本さんとしても長くテレビの仕事に携わってきた立場として、この企 画を通してウルトラマラソンをより多くの人に知ってもらいたいという気持ちだったようで、私もある程度 の走りをすることで、それに応えたいと思った。

「もちろん、レースではないのであまり頑張り過ぎてもらっても仕方ないですが、ある程度一般の視聴者にインパクトを与える意味でも、200km前後という目標で臨んでもらいたいと思っています」

これは私のイメージしていた距離とほぼ一致していた。過去に(時間に関わらず)1回のレースで200km以上の距離を走ったことは10回以上経験しているので、箱根の山越えなどを含めても、体調さえ万全ならば難しい距離ではないだろうと予想していた。しかし、ウルトラマラソンは何があるか本当に分からない。後は運を天に任すようなつもりで黙々と練習に励み、万全な体調に仕上げて撮影当日を迎えた。

 

まだ梅雨明けも宣言されていない関東地方の空は、雲ひとつない真夏のような快晴の日和となった。いつも通勤に向かう時間とほば同じ時刻に家を出て、東京へと電車を乗り継いで向かった。東京駅からタクシーを拾い、日本橋に着いたのが午前9時ちょうど。すでに坂本さんはじめランナーズ・ウェルネスの社員数名がサポートカーの中でいろいろと準備を進めており、私の到着を笑顔で出迎えてくれた。

今回の実験ランには坂本さん以下、久水さん、中川さん、三苫さんの4人がサポートとして加わり、他にも医療スタッフとして沼津市立整形外科病院の下山先生も同行するという、手厚いスタッフのなかで走らせてもらうことになった。

テレビ制作会社のディレクターとも初めての挨拶と簡単な打ち合わせ。

スタートは10時頃、日本橋に一番近い郵便ポストから集配車の到着を待って、集配作業を終えたのと同時に実験の開始となる。

私は5kmごとに特設された郵便ポストに郵便物を配って行く。一方、郵便配達側の郵便物の中には発信器が入れられており、郵便物が実際にどの辺を移動中であるかが大体把握でき、その情報は逐一お伝えしますとのことだった。

撮影用の車が3台。撮影スタッフも10人以上いて、何となく仰々しい。ランナー一人に対してさながら「大名行列」のような様相だ。

10時03分に郵便局の集配車が日本橋のポストに到着。集配作業が終わるのを待って、ディレクターの「それではスタートしてください」の声を合図に日本橋を後にした。

三苫さんが自転車で先導してくれるので、私は地図を持たないで彼の後ろを追い駆ければ良い。撮影車が私の横に付きながら、道路状況を見ては先回りしてカメラを構えたりして、とにかく私の姿を隈なく撮影しようとしていた。常にカメラがまわっているという手前もあったが、明らかに車の通りのない小さな信号機でも、私は完全に停止することとし、交通ルールを遵守しながらの走りを心がけた。

大手町から皇居の前を通り、国道1号線をそれて日比谷通りを『東京国際マラソン』のコースに沿って進む。芝公園に差しかかると最初の5kmのポストが沿道の左側に見え、その10mほど手前でスタッフの方から封筒入りの郵便物を手渡された。私はディレクターの指示通り、ポストの中身に郵便局からの配達物がないことを確認してから郵便物を入れて、次のポストヘと向かう。つまりポストの中身を確認した時点で他の郵便物が先に入っていたら、郵便局のほうが早かったことになり、その時点で実験ランは終了となるので、そこから先へは進めないというルールだ。

スタートからこの5kmで36分の時間を要した。自分自身の感覚としては1kmを5分くらいのペースで走っていたのだが、信号待ちのタイムロスは予想以上のものがあった。

三田から国道15号線に合流し、品川駅前を通り京浜急行線の新馬場駅を過ぎた辺りで10kmのポストを通過。この5km間も36分(通算1時間12分)かかり、15kmの大森駅附近のポストまでの5km間も33分(通算1時間45分)を要した。信号待ちの度に先導の三苫さんと顔を合わせて苦笑いを繰り返した。

六郷から多摩川を渡り、東京に別れを告げて神奈川県の川崎市へ。最初の交差点附近にガソリンスタンドがあり、20km地点のポストがそこにあった。私が届ける郵便物には〈トリビアの泉〉と書かれた特製のシールが貼られており、宛先もちゃんとそこの住所と宛名が記されていた。この5km間は信号も少なく流れも良かったので26分(通算2時間11分)で通過できた。

25kmのポストがある生麦までは再び信号待ちが多く34分(通算2時間45分)かかってしまったが、その後は徐々に信号も少なくなり、やっと自分のペースで走ることができるようになった。

スタートから3時間を過ぎ、午後1時をまわると気温もグングン上昇し、これがかなり堪えた。5kmごとのポスト附近でエイドを開いてもらい、その度に大量の水分を補給して熱中症などに備えた。

事前にサポートカーで用意していたものの他にも、私のリクエストに応じてコンビニなどで買い出ししてくれ、まさに至れり尽くせりの殿様ランニング。サポートの方々の応援にも報いたいと思うと、署さの中でも頑張れるような気がした。

横浜駅を過ぎ、高島町から国道1号線に合流。保土ケ谷を通過し権太坂の登りに差しかかると3台のカメラが総動員で私の走りを追い駆けた。ここは箱根駅伝でも2区の難所の1つとして有名なところ。できるだけ涼しい顔を装って難なくこの坂を登りきると、「さすが関家さん、強いですねぇ」とスタッフの間から笑みがこぼれた。

戸塚区平戸にある40kmのポストを通算4時間12分で通過。直後のエイドで初めて椅子に座り、おにぎりや素麺などを昼食代わりにしっかりと食べた。私の飲食中には坂本さんが冷たいタオルを膝に巻いてアイシングしたり、ふくらはぎなどを軽くマッサージしてくれ、本当に気持ちよくリラックスできた。ディレクターがいろいろとインタビューしてくる。

「だいぶ暑くなってきましたが調子はどうですか?」

「暑さというよりも日差しの強さが厳しいですね。風もないしけっこう堪えます。でも、まだまだ序盤だし体調も悪くないので頑張ります」

「我々一般人の感覚からすると40kmが序盤という発想自体考えられないんですけど…」

ディレクターは笑みを浮かべながら、ここまで順調に撮影が進んでいることに満足気な様子だった。

「関家さんは好き嫌いなく何でも飲み食いできるでしょ。この胃の丈夫さが強さの秘密ですね」

坂本さんは私がおにぎりを頬張っているのを目を細めて眺め、横から補足するように言った。

戸塚駅を過ぎた辺りから国道の交通量も俄然増えだし、暑さのほかに排気ガスという新たな敵が加わった。最初1km6~7分だったペースが30km過ぎから5分台まで上がっていたのだが、これにより再びペースダウン。坂本さんにお願いしてエイドの間隔を今までの5kmから2~3kmに短くしてもらい、頻繁に身体内外のケアを行うことによって、この難局を凌ごうとした。

50km地点の蕎麦屋さんのポストでは店の人が総出で私が来るのを待ち構えてくれ、激励の声が嬉しくて気持ちを切り替えて頑張ることができた。

国道1号線を一旦外れて藤沢から県道に差しかかったときにエイドから胃薬をもらう。16時前、55kmのポストを通過した直後にカメラに向かって笑いながら呟いた。

「いつもは雨男なのに、なんで今日に限ってこんなに晴れるんだよぉ~」

辻堂を抜けると海沿いの国道134号線に突き当たる。国道を横切る歩道橋を渡り、海岸沿いのサイクリングコースを、海を左に見ながらしばらくの間走ることになる。風もなく穏やかな波の音は暫し走りの疲れを忘れさせ癒してくれた。前方の遠くには富士山がくっきりと見える。3台のカメラが私の走る姿を追うと、それは、まるで湘南ロケの加山雄三か桑田佳祐にでもなったような錯覚にとらわれて爽快だった。私は1台のカメラに向かって「気持ち良いね~」と、微笑んだ。サイクリングロードにはもちろん車は入れないので、この約5km間は自転車先導の三苫さんにポカリスェットの給水をもらって凌いだ。

茅ケ崎から国道134号線に戻り湘南大橋を越えて平塚のドライブイン、箱根駅伝の中継地点でもあるエイドヘ。すでに17時をまわったというのにまだまだ日差しが強くて暑い。膝に手を当てて中腰になり、冷たい水をたくさん含んだタオルを頭上から絞ってもらって頭を冷やした。

この地点から今まで先導を続けてくれた三苫さんに代わって下山さんが自転車に乗り、コースを誘導してくれることになった。花水川を渡り、大磯の駅前から国道1号線に戻る。ここから箱根まではよく自宅から練習コースとして走っているところなので、状況も把握でき安心感があった。

ランナーズ・ウェルネスの事務所前を通ると坂本さんの奥さんが手を振って応援してくれた。坂本さんのご夫妻とは97年の『ザット・ダム・ラン(100kmレース・ニュージーランド)』でお世話になって以来の付き合いで、野辺山100kmマラソンやスパルタスロンなどでもいろいろとお世話になっている。今回のこの話もそんな長い付き合いのなかから生まれたものだろうと思うと、人との繋がりというのは大切にしなければいけないなぁと改めて思った。

二宮から国府津を抜けて18時を過ぎたところでやっと辺りが薄暗くなり出した。酒匂橋の手前のエイドでそれまで付けていたサングラスを外してサポートカーに預けた。今回の実験ランでは、これから始まる夜に頑張れるかどうかが勝負の分かれ目だろうと最初から予想していた。日中が署かった分、夜の涼しさが心地良くて走りやすくなるのではないかと読んでいたのだ。

小田原を過ぎ新幹線の高架下をくぐると緩やかに登り始める。箱根駅伝の中継地点でもある『鈴廣』でエイドを開いてもらい、ここで痛み止めを飲んで、これから本格的に厳しくなる登りに備えた。90kmのポストがある入生田の信号は押しボタンを押してもなかなか変わってくれず、3分も待たされた。車の通りもそれほどなかったので「このくらいは良いかな?」とも思ったが、ここでも生真面目に信号を守った。

箱根湯本に差しかかると完全に日が暮れて、辺りは真っ暗に。そして、ここから今回のコース中最大の難所である箱根の峠越えが始まる。ただし登りに対してさほどの苦手意識を持たない私にとって、この峠越えはむしろ好都合だと思っていた。今回、希望としてはもちろん200kmを超えたいと思っていたが、長丁場のウルトラマラソンでは何が起こるか分からない。もしも、この坂を走って登りきることができたら、200kmまで行かなくてもそれだけで最低限一つの番組として成り立つのではないかと考えていたからだ。

とにかく、この坂は全て走って登りきろう!

ここまですでに100km近くを走ってきているのだが、登りでは使う脚の筋肉がまた違うらしく、案外歯を食いしばらなくてもスイスイと登れる感じがした。

私の走りから何か余裕というか一種のオーラが発せられていたのかもしれない。この辺りから撮影スタッフの様子がにわかに変わってくるのを感じ取った。

「俺達は今回の仕事でとんでもない奇跡の映像を撮影するかもしれない…」

そんな空気が漂っているような気がした。

小涌谷の踏切を越えたところに100km地点のポストがあった。ここまでの通算タイムが10時間14分。今回の条件を考えると悪くない通過だ。

ポストの設置地点は食料品屋さんで、店の人が外に出て待ち受けてくれた。また私を追い越して行く車からも何度か声援を送られた。

「ゴール地点で待ってるぞ‼」~あんたの思ってるゴール(箱根駅伝のゴールだろう)は俺のゴールじゃないんだよ~そう苦笑いしながら登りを走り続けた。

小涌園のコンビニでエイドを開いてもらい最後の登りに備えて腹ごしらえをした。ディレクターが寄ってきて話しかけてきた。

「この登りも順調に走っていましたね」

「僕、もともと登りが得意なんで、ここでリズムが変わって却って良かったです。それと上に行くに従って気温も下がってきましたしね」

「スタッフの間では250kmくらい行くのではないかと期待しているんですけど」

「ははは。それは勘弁してください」

もちろん、これからどれだけ頑張っても250kmなど行くわけはないが、200kmという目標はクリアできそうな気がしてきていた。

「とりあえず箱根を越えてから考えましょう」

そういい残してエイドを後にした。

その後も快調なペースで登りを走り切り、頂上付近にあった105km地点、芦之湯のガソリンスタンドでは待ち構えていたスタッフから拍手が沸き起こった。

芦ノ湖へ向けて今度は下り基調となる。登りで掴んだリズムをそのままに快調に走り、110km地点のポストヘ。

箱根駅伝のゴールを通過し(先ほど車から声援をくれた人は待っていなかった)、3kmほど登ると箱根峠の頂上に到着。道路脇の気温計は17℃を示していた。日中の暑さから比べるとかなり冷え込んでるようにも思えたが、この時間帯でもまだ走れていたのと、夜になっても風がなかったのでそれほど寒さは感じなかった。エイドでカップヌードルをすすりながら、坂本さんからこの先のコースについて説明を受ける。実はこの先のコースについてはほとんど予備知識がなかったので、説明をよく聞きながら、この先の走りをイメージした。

箱根峠から三島にかけては延々とした下り坂となる。箱根の登りからは自転車に代わってオートバイが私の前後を導いてくれていたのだが、この下りから再び三苫さんが自転車で付いてくれることになった。登りで掴んだリズムをそのままに下り坂も快調なペースで走る。今までずっと私の横を並走していた撮影車もテンション低くなり、考えてみれば、こんな真夜中に郵便の配達があるはずもなく、翌朝に展開されるであろう郵便配達対ランナーの壮絶な(?)バトルのドラマ撮影準備に、嵐の前の静けさを迎えたい心境なのだろうと思い巡らせたりして進む。私に課せられた役目はそのドラマの完結に向かって淡々と距離を稼ぐことのみである。125km地点のポストでは、こんな所で追い越されるはずはないだろうと自信満々でポストを覗き込み郵便物を中に入れた。

ここから自転車の先導が再び下山さんに代わった。彼はこの辺りが地元なので地理にも詳しく、私と並走しながらこの先のコースについていろいろと細かなアドバイスをくれた。

塚原新田から県道のほうに逸れ、三島市内に入りやがて箱根の下りも終えようとする頃には思いもよらぬ新たな敵が加勢してきた。暑さだ。

箱根の頂上で17℃だった気温が下るにつれて上昇し、三島に降りる頃には25℃近くにまで達していた。今夜は熱帯夜になるのだろうか、風もなく発汗の量も劇的に増えてきた。

三島広小路駅の近くにある雑貨屋の前に130km地点のポストがあり、ここのエイドに座り込んで缶コーラを一気に飲み干した。久しぶりにカメラを向けられ、スタッフから調子を聞かれた。

「暑いけど脚は動いているので大丈夫でしょう。200kmは超えられると思います」

スタートから13時間半が経過していたが強気な発言とは裏腹に、この後、最も厳しい時間帯に差しかかり、さらなる試練が私に追い討ちをかけることになる。

三島市を抜けようとする頃、郵便の集配所の前を通るとたまたま〒マークを付けた大型のトラックがそこを出るところだった。

「ああ、こんな時間でも郵便物は確実に動いているんだなぁ」と、思い知らされた。

沼津駅前を抜け135km地点を過ぎると海岸線の真っ直ぐの道が延々と続いた。ここまで走り続けてきた疲労、暑さに加えてこの単調なロケーションに一瞬緊張感が緩み、激しい睡魔に襲われるようになった。それでも眠気を堪えて走り続けるのだが、140km近で先導自転車の下山さんに「今どのくらいのペースで走っていますか?」と聞くと、「この5km間は時速9kmくらいですね」と答えが返ってきた。

自分の感覚としては時速10kmは楽勝で上回っているつもりだったのだが、身体の疲れは一つのピークを迎えていたのかもしれない。

富士市に入りJR東海道線の陸橋を超えるとコンビニエンスストアがあり、ここでレース中初めて大きい方の用を足した。その直後に150km地点のポストが…。そこから数10m行くと川原に広い空き地があり、そこにサポートカーが停まっていて、マットや毛布が準備されていた。私は倒れ込むようにそこに寝転がり、 「とりあえず30分」と告げて目を閉じた。その間ももちろんカメラは回っており、スタッフの話し声などもザワザワと聞こえてきた。また、ここは蚊も多く、気になってなかなか眠れない。20分ほど目を閉じていたが、だんだん時間がもったいなくなってきたので、上半身だけ起き上がって坂本さんに声をかけた。坂本さんは心配そうに私の元へ歩み寄ると、腰や脚にかけて入念なマッサージを施してくれた。

約10分ほどだっただろうか、これはかなり効いた。温かいスープをいただきながら、今後のコースやペース配分について坂本さんと再度入念な打ち合わせを行った。郵便配達の動向もあるので何時間走ることになるのかは定かでなかったが、とりあえず24時間(午前10時まで)で210kmという目標を設定し、お互いに確認した。現在、時刻が午前3時少し前。つまり残り7時間ほどで、60km走らなければならない。一見無茶な設定のようにも思えたが「関家君ならできるよ」という一言が私に勇気を与えてくれた。

午前2時55分。「それじやぁ行きます」の言葉と共に私は再びコースの県道380号線に戻った。ここからは三たび自転車の先導が三苫さんに代わった。走り始めてすぐはなかなかペースが上がらなかったが、しばらくすると45分間もの間休憩を取っていた効果が表れ出し、時速10kmのペースが蘇ってきた。すぐに汗も出るようになり、眠気からも一気に解放された。

富士川を渡り県道396号線を左折する頃、濃闇だった夜が次第に白み出してきた。左に架かるJR東海道本線を実に長い車両を乗せた貨物列車が走り過ぎて行く。思えば遠くへ来たものだと、しばし旅情に浸るような感覚は、走りの疲労をずいぷんと紛らせてくれた。

160km地点のポストを4時ちょうどに通過。直後のコンビニエンスストアのエイドで栄養ドリンクを一気に飲み干した。

「一つだけお願いがあるのですが…」

私はサポーターの方々に切り出した。

「この走りが終わったら、何でも良いからまず冷たいビールを飲ませてネ」

「キンキンに冷えたやつですね」

サポーターの中川さんが嬉しそうに真っ白な歯をこばして微笑んだ。

午前4時を過ぎると一気に夜が明けて、私は夜間ずっと着ていた蛍光色のベストと携帯していたライトをエイドヘ預けた。昨日とは打って変わっての曇り空だったが、暑さは相変わらずだ。

東海道本線沿いを新蒲原駅、蒲原駅と通過し、由比駅前の個人宅が170km地点のポスト。駅前の狭い脇道を入ると『薩た山』の入り口があった。この山越えの2km区間ほどは車が進入できないため、中川さんがハンディカメラを回しながら同行することになった。けっこう登り斜度の厳しい坂が続くのだが、彼は後ろ向きに走りながら私の姿を映し、また駆け足で早回りしてはカメラを構えた。私は「こんなキツい坂よく走れるねぇ」と、呆れて苦笑いしながら今回の実験ラン中、唯一この坂だけは歩き通した。

『薩た山』の頂上からの下りで再び走り出す。山道の出口に着くとスタッフ全員が待ち構えており、大きな拍手で迎えられた。

新蒲安橋を渡り、国道52号線を左折してしばらく行くと箱根の下り以降久しぶりに国道1号線に合流した。

1号線には1km毎に日本橋からの距離を示すポストが設置されているのだが、もうそろそろ180km地点だというのにポストの表示はまだ170kmの手前を示していた。ここに至るまでに1号線を真っ直ぐ行くよりも10km以上遠回りをしてきたことが分かる。

6時ちょっと過ぎに180km地点のポストを通過。郵便配達が実際に動き出すのが9時くらいということを考えると、200kmは超えられそうだという手応えがやっと掴めた。

清水駅を通過する頃になると、にわかに町行く人の数が増え出した。東海道新幹線のガードをくぐり、185km地点のエイドで椅子に座って朝食を摂った。炭酸の飲み物が無性に欲しくなり、近くのコンビニでジンジャーエールを買って来てもらった。静岡駅まではあと10km。「とりあえずそこまで行けば番組的にもカッコつくよね」などと体裁の良いことを言いながらジンジャーエールをガブ飲みした。

JR草薙駅に差しかかる辺りからは国道1号線の交通量も増え出し、歩道の道幅も広く、真っ直ぐに伸びた直線の道を相変わらず淡々としたペースを刻んだ。

結局、一晩中着替えなど一切しなかったのだが、今回初めて使用したハーフタイツの具合もかなり良いみたいだ。これによる筋肉の疲労軽減の効果は絶大なものと感じた。

またシューズもこの4月からそれまで履いていたNIKEの32cmからNewBaranceの30cmのものに変えたのだが、心配していた指先のマメなどもできていないようで、それらがここまでの順調走につながっていたのではないかと感じた。

190km地点の東静岡を過ぎるといよいよ背の高いビルが増えてきて、静岡県庁の所在地・静岡駅が間近に見えてきた。頭上の道路案内には「浜松○○km」という表示も増えてくる。今現在の私の走行距離とその表示の距離を足すとちょうど270kmくらいの数字になる。今まで24時間走のレースなどでは東京-浜松間のそれに近い距離を走ってきたんだなあと思うと、ちょっぴり自分自身が誇らしく思えてきた。

静岡駅前から再び国道1号線を離れ、静岡市役所、静岡県庁の前を通り、中町の交差点を左に折れると195km地点のポストがあった。撮影スタッフから「郵便局のバイクがそろそろ動き出しているとの情報が入っています」と、言われる。せっかくここまで来たのに200km到達前に追いつかれてしまっては悔しいので、休憩もほどほどに先を急いだ。

安倍川餅で有名な安倍川の橋を渡る頃、それまで明け方からずっと曇り基調だった空から晴れ間がのぞきだした。暑さがかなり堪える。とにかく最後の力を振り絞るつもりで200km地点のポストを目指した。

8時18分(スタートから22蒔間15分)、民家の前に設置された200km地点のポストに到着。祈るような気持ちでポストの中をのぞき込むと、中はカラだった。

「よっしゃ~200km!」

私は右の拳を突き上げてカメラに向かってポーズをとった。カメラの脇にいたアシスタント・ディレクターが満足そうに2~3度うなずいた。スタート前からこの距離を最大の目標として置いていたので、一つの重圧から解き放たれたように、これによって一瞬、緊張の糸が解けてしまったような気がした。

直後のエイドで水分補給をしていると、スタッフから「200km超えましたね」と声をかけられた。私は「スタート前からの目標だったので、かなり嬉しいです」と、安堵の気持ちから喜びが湧き出るように答えていた。そしてもうこれでいつ追い付かれても良いというような態度が垣間見られたらしい。

それを察知したのか、傍らにいた中川さんから「我々ランナーのためにも最後まで頑張ってください」と、檄を飛ばされた。なるほど、今回の実験ランに臨むにあたって、私はある程度「普段のレースのつもりで…」と意気込んでいたはずだったが、200kmという一つの目標をクリアした瞬間に気持ちが一気に緩んでしまったようだ。

「そうだ、昼夜を問わず私の走りに付き合ってくれるスタッフやクルーのためにも最後まで頑張ろう」そう気持ちを入れ直してエイドを後にした。

 しかし、一旦緩んでしまった緊張の糸を再び手繰り寄せるのは容易なことではなく、気持ちはあるのだがピッチがなかなか上がってこない。

丸子川に架かる橋を横切り国道1号線に再合流した辺りは交通量も多く、排気ガスと暑さも手伝ってさらに気分が滅入りそうになった。

宇津ノ谷峠の入り口にあるドライブインのエイドで頭から水を被り気合いを入れ直す。ここからは旧道を通って宇津ノ谷峠を越えるのだが、峠に向かう得意な上り坂で腕を振って一気に走り切ると、再びリズムが取り戻せたようで、頂上の宇津ノ谷トンネルを潜って下り坂に入る頃には、また200km以前のようなペースが蘇ってきた。

トンネルを出てすぐの下り坂の途中、木材加工場の入り口に205km地点のポストが設置されていた。8時52分、無事に通過。岡部川に沿って県道208号線を走り岡部町に入る頃、郵便配達のバイクを見かけるようになり、いよいよクライマックスが近づいてきていることがヒシヒシと伝わってくる。

「やっと終われる」という安堵の気持ちと「もうちょっと走っていたいなぁ」という気持ちとが複雑に心の中で絡み合いながら、なおも淡々と前を目指す。日本橋のスタートからの様々な場面が走馬灯のように思い出される。やっぱり、もう少し走っていたいなあ…。

藤枝市横内にある左官業者の敷地内に210km地点のポストがあり、9時31分に到着。

「そろそろか?」

内心ドキドキしながらポストをのぞき込むと入っていない。

「よし!」

私は小さくガッツポーズして次のポイントヘと向かった。私の横を走っていた撮影車の中から、ディレクターが窓から身を乗り出して声をかけてきた。

「次の215km地点に郵便配達がかなり近づいているという情報が携帯電話に入りました」

私は思わず「負けないッス!」と声を上げ、ラストスパートの態勢に入ってスピードを上げた。

藤枝市の中心部でもあるこの付近は、国道の片側が一車線しかないものの歩道の幅は広く、しかもアップダウンのない直線道路だったのでスピードにも乗りやすい。また日本橋からのキロ表示のポストが500mおきに設置されていたのでペースも分かりやすいのだが、時計をチェックすると、ここに来てキロ5分を切るペースを刻んでおり、最後の力を振り絞って「ゴール」の瞬間を目指した。私自身、次の215km地点がゴールになるだろうと確信していたので、そのスパートに迷いはなかった。

瀬戸川橋を渡りきったところに215km地点のポストがあった。9時56分。これで最後だ~と、勢いよくポストの蓋を開けると中には何もない。一瞬自分の目を疑ったのだが、つまりこの地点も郵便配達よりも早く通過したということだ。私は一瞬ガクッと背中の力が抜けたような感じがしたが、すぐに身を起こして派手なガッツポーズを作って喜びを表現してみせた。ディレクターが私のところに寄ってきて笑った。とにかく、これで最低あと5kmは走らなければならないことになった。

「まあ、しょうがねえか…」

私はエイドのスタッフからコンビニで買ったざる蕎麦をもらい、腹ごしらえをして、気持ちを入れ替え次のポストを目指した。

前日の10時03分にスタートしてからまる24時間が経過したが、この先どこまで走ることになるのか予想がつかない。しかし、そんな先の見えない話に囚われて不安がっていても全く意味がない。私はなるべく笑顔を作って、「楽しいから走っているんだよ」というスタンスで、カメラに向けてアピールしながら走ることにした。実際に、この企画で走れるランナーは世界で誰一人、私だけしかいないわけだから、それに対する感謝の気持ちを身体いっぱいに表現しようと気持ちを切り替えた。不思議なもので、こう考えると脚の動きがスムースになるような感じがして、またまたピッチが上がる。

撮影車のディレクターが「今度こそ郵便配達が次の地点にかなり近づいているという情報が入りました」と声をかけてきたが、私は笑顔で軽く手を上げるだけで、マイペースを維持することにした。

島田市に入るとすぐに220km地点のポストが目に入った。それまでと同じように数10m手前でスタッフから郵便物を手渡される。ポストの周りには撮影のカメラが取り囲むようにして並び、スタッフがジーっと私のほうを注視している。

「ひょっとしたら…」

それまでとは違う感覚で胸の高鳴りを感じながらポストの蓋を開くと、そこには私の持っているものと同じ〈トリビアの泉〉特製シールの貼られた郵便物が入っていた。

10時21分。日本橋のスタートから24時間18分。その郵便物はこの実験ランの終わりを宣告するものであって、それを見た瞬間、全身の力がフッと抜けるような感覚があった。私はその場にしやがみ込んで、カメラから視線を逸らし苦笑いを浮かべながら、ひと言

「ああ、入ってたあ…」

と呟いた。

それは長い長い走りから解放された安堵感と、もう少し走りたかったという残念な気持ちとが相まった何とも分かりやすい絶妙なひと言だったと思う。スタッフの話では私が到着する8分前に郵便配達の郵便物が届けられたのだそうだ。

すぐに椅子が用意され、約束どおりキンキンに冷えた缶ビールが差し出され、私はそれを一気に飲み干した。「うんめぇ~!」

スタッフの笑顔に溢れたその場で今回の企画の総括としてインタビューが行われ、ディレクターの質問に一つひとつ答えた。どんな質問をされたのか、何を答えたのかは全く思い出せないが、かなり気分は上機嫌だったので流暢な受け答えで周囲の笑いも誘っていたように記憶している。最後にお世話になったスタッフ、サポートの全員に深々と頭を下げ、大きな拍手に包まれて今回の撮影終了の時を迎えた。

 

撮影日から1ヶ月あまりが経過した8月11日、水曜日。フジテレビ系列で21時から放送された〈トリビアの泉〉の【トリビアの種】のコーナーで、ついに郵便局対ランナーの壮絶な(?)パドルの映像が流された。

私自身編集されたものを見るのは初めてだったのだが、ランナー関家の動きだけではなく、半分は郵便システムの動きが紹介されており、なかなか興味深い面白い番組内容になっていたと思った。【品評会会長】のタモリさんが思わず感涙するほどの、素晴らしい内容の企画であり編集だったのではないかと思う。タモリさんの採点も、もちろん最高評価の「満開」(評価は一分咲き~九分咲き、満開と10段階に分かれているらしい)。バラエティ番組の他愛もない採点だったが、私自身それなりに苦労して走った結果だったので、何だか報われたような気がして率直に嬉しかった。

このような企画で走るチャンスは今後そう滅多にはないと思うが、今回、私に白羽の矢を立ててくれ、24時間以上もの長時間お世話してくださったテレビ局の方やランナーズ・ウェルネスの方に改めてお礼申し上げたいと思う。

2004年、私の暑い夏は燃え盛る太陽のようにギラギラと輝いていた。