ウルトラマラソンランナー・関家良一対談編
2023年2月4日㈯ 神奈川県内某所
l 8年ぶりの再会にあたって
関家良一(以下:関):お久しぶりです。何年ぶりに会うっけ?
櫻井教美(以下:教):えー?覚えていないなぁ。
関:多分、パッと会っただけだけど、僕の記憶では2015年の奥武蔵以来かなと思う。
教:ああ、(私を指差しながら)走っていたね。
関:折り返しの辺りで、旦那さんと一緒に応援していたよね。「あれ?走らないの?」なんて、僕から声を掛けたと思う。
教:私は伴走するつもりで折り返し地点まで行ったのだけれど、その本人が来なかったの。途中でリタイヤしちゃったみたいで(笑)。
関:ああ、それでやる事ないから応援していたんだ(笑)。
教:折り返し地点で伴走者を交代する予定だったの。
関:でも個人では2008年に驚異的な大会記録を作って以来参加していないよね?
教:その後、伴走では2回くらい参加していると思うのだけれど。
関:78㎞を一人で伴走した事もあるの?
教:それは無いかな?鎌北湖で伴走の練習会があって何回か参加したのだけれど、その程度。
関:レースに出なくなってから久しいよね。櫻井さんのリザルトを調べたら2009年の7月にフランスで開催されたトレイルの世界大会(Serre Chevalier=フランス=68㎞)が最後で、それ以降の記録が無いのだけれど、走るのをやめたの?
教:うん。やめた。
関:ある程度やる事全部やったし、もういいかなって感じかな?その思い切りが凄いなぁって思うのだけれど。
教:2008年辺りでもういいかなって思っていた。
関:その年の10月のハセツネで、女子で初の9時間切りで優勝しているのだけれど、それを手土産にやめた感じ?
教:そうだったかもしれない。でもその時点ですでに申し込んでいた大会もあったから、11月の東京国際マラソン(フル)と、翌年2月の青梅マラソン(30㎞)はとりあえず走った。
関:その後7月のトレイル世界大会は、ハセツネ優勝の実績で声が掛かったのかな?
教:いいえ。2007年12月の第一回トレイル世界大会(Huntsville=テキサス=50マイル)で優勝していたので、招待されて行ったの。もうあまり気合入れられてなかったけど、せっかくだから行こうと思った。
関:じゃあどちらかというと「卒業旅行」みたいな感じだったんだ。
教:でもその頃UTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン=フランス~イタリア~モンブランに跨る全長約170㎞の山岳レース)が日本でも流行り始めていたから、ガチで目指すつもりは無かったけれど、ヨーロッパとかアルプスとか、ちょっと覗いてみたくなってね。
関:でも結局UTMBには行かなかったんでしょ?やっぱり卒業旅行じゃん(笑)。
教:あとその頃、ランニング雑誌で「宮古島100㎞を完走しよう」という企画があって、初めて100㎞を走るという人を集めて、練習会とかやったんだけれど、そのコーチ役として2~3回宮古島に行ったかな。
関:でも個人として100㎞走ったわけじゃないんでしょ?
教:全然。だから2008年で競技としてのランニングは終わっていたね。自分の中では。
関:凄いなぁ。そうやってスパッとやめられるものなんだ。
教:たぶん最初からそのつもりだったから。このままどこまで行けるのだろうって思いながらやってきたでしょ。でもいつかは絶対に頭打ちになるじゃない。そうなると、どこかを工夫しなければそれ以上には行けないよね?
関:まあ、そうだけど。でもまだ40歳手前だったよね?
教:年齢とかはどうでも良くて、最初に走り始めた時の「このままどこまで行けるのだろう」という感覚が大事だったの。最初の頃って練習すればしただけ記録が伸びるでしょ。でもある程度のところまで来たらどこかを変えていかなければならないじゃない。例えば筋トレしたほうが良いかなとか、ストレッチも取り入れようとか、身体のケアに取り組んだ方が良いとか。そういう工夫をしなければ続けられないと思ったらやめる。最初からそう決めていたと思う。そう思いながら10年近くやっちゃったけれど(笑)。
関:はぁ~。その辺の感覚は僕のような凡人には分からないなぁ(笑)。
l 興味本位から始まったマラソン参加
関:初めてのウルトラマラソン参加は2001年のサロマ湖100㎞のようですが、その前にフルマラソンとか、初めて市民レースに参加したのはいつ頃だったの?
教:’96年のつくばマラソンで初めてフルマラソンを走ったの。私の先輩で筑波の大学院に行った人がいて、「私つくばマラソン走ったんだ~」って話を聞いて、「いいなぁ。私も連れてって下さいよ」ってノリで。
関:冗談で言ったつもりが?
教:そうでもなくて、やっぱり一回くらいフルマラソン走ってみたいなという興味本位かな。もちろん、その後も続けようなんて気は全くなくて。
関:あ、分かる分かる。僕もランニング始めた頃は一生に一度フルマラソン走れたら良いなぁって感じだったものね。どのくらいのタイムだったの?
教:4時間20分くらい。練習では10㎞くらいしか走ってなかったしね(笑)。そのまま続けていれば翌年はもっと良いタイムで走れたのだろうけれど。そんな事はもちろんせず、ランニングはこれで終わり。
関:終わり(笑)。
教:でもちょうどその翌年だったかな。大学時代のワンダーフォーゲル部のOB達が、長野で開催された日本初のアドベンチャーレースに出たよって話で盛り上がっていて、練習がてらに富士登山競走にも出たんだという話を聞いて、「面白そうだなぁ。私も連れてって」感じで、その翌年(‘98年)に出る事になり、週末にみんなで走る事になったの。それが定期的に走るきっかけだったかな。
関:つくばマラソンに出た時と同じノリだね(笑)。それで富士登山競走はどうだったの?
教:9合目で時間切れになっちゃったのだけれど、とりあえず頂上までは行かせてもらえて、記録は4時間57分だった。制限時間は4時間30分だったけれど、5時間までは記録を取ってくれたので。一応参考記録の扱いだったけれど、一緒に行った仲間は全員完走できなかったから、頂上まで登っただけでも「スゲー」って驚かれてしまったの。
富士登山競走には翌‘99年にも出て、その時は4時間13分で完走できたので、更にみんなから変に注目されるようになった(笑)。
関:なるほど。その富士登山競走の実績が‘00年の国体参加へと繋がっていったわけだね。
教:あと、せっかく走り始めたから、もう一度つくばマラソンに出ようと思って申し込んだのだけれど、ちょうどその頃、足底筋とシンスプリントを痛めてしまって、結局出なかったの。
関:申し込んだけれど出られなかった。
教:その後、お世話になっていたワンダーフォーゲル部の監督が毎年勝田マラソンに出ていたから、‘99年の大会に一緒に連れて行ってもらって。
関:それが2回目のフルマラソンなんだね。タイムはどうだったの?
教:3時間35分。それでその1か月後に荒川マラソンを走って、それが3時間31分だった。でもその頃ってジャージの上下着て走っていたの。
関:はぁ?そのくらいのタイムだったら周り走っている人はみんなランパン・ランシャツでしょ(笑)。
教:それで監督さんから「3時間半切ったらランパン・ランシャツ買ってやる」って言われて。
関:と言うか、そもそもランパン・ランシャツで走っていたら3時間半切っていたんじゃないの(笑)。
教:それで翌‘00年の勝田で3時間15分50何秒かで走って、ランパン・ランシャツも貰える事になって喜んでいたのだけれど、「3時間15分切っていたら東京国際マラソンに出られたんだぞ」って言われて、初めてそういう事を知って、じゃあそこを目指そうという事で翌月の荒川を3時間01分で走って、出場権が取れたの。
関:なるほど。因みにその時もジャージで走ったの?
教:いいえ。前年の秋くらいから国体に向けての練習をやるようになり、その頃からタイツを履くようになったから、この時はTシャツとタイツという恰好だね。
関:良かった。ジャージ姿で3時間15分出されたら「いい加減にしろ」って突っ込まれるところだね(笑)。
l ウルトラマラソンのデビュー戦で優勝
教:本当はその‘00年にサロマ湖100㎞に出てみようって監督から言われていたのだけれど、いざ申し込もうと思ったら参加費だけで14,000円もするじゃないですか。それに旅費とかも合わせたら10万円超えちゃうし、さすがにそれだけの出費は無理って思って、その年は参加を見送ったの。そうしたらそのレースで安部友恵さんが6時間33分の世界記録で優勝したんですよ。安部さんと言えば当時有森裕子さんとか、松野明美さんとか谷川真理さんとかと並んで女子マラソンの有名人だったし、そんな人が世界記録出したんだって思ったら、何だかすごく衝き動かされるものがあって、それで’01年のサロマに出る事にしたの。
関:安部さんの記録は衝撃的でしたね。‘01年サロマ湖100㎞が櫻井さんにとって初めてのウルトラレースになるわけですが、そこに行くまでにその後フルマラソンの記録はどう推移したのかな?
教:‘00年の荒川で東京国際マラソンの参加資格が取れたから、その年の11月に早速参加したの。そこで初めてサブスリーできた(2時間56分38秒)。とにかくこの’00年は10月の国体がメインで、毎週末に開催地の富山まで行って練習していた。金曜日の夜に都岳連の監督の車に乗って、朝に現地に到着して、土日で山を駆け回って。だから練習自体フルマラソンの為という訳じゃなかったけれど、結果的に走力は随分鍛えられましたね。
関:そして初めて臨んだサロマ湖100㎞を8時間00分41秒という好記録で優勝。初めてにしては凄い記録だと思うのだけれど、走る前からこのくらいのタイムが出ると思っていた?
教:思っていた(笑)。
関:その根拠は?フルのタイムから考えてという感じ?
教:安部さんの記録は参考にならないけれど、その前年に優勝した関谷彰子さんがそのくらいで走っていたから、彼女のフルマラソンのタイムから見たら私もそれぐらいで走れるかもって思ったの。
関:はぁ。やっぱり考え方がポジティブだね(笑)。じゃあ8時間くらいを目標にして、ペース配分とかも考えていたの?
教:うーん。そんなに細かいペース配分は考えていなかったかな。80㎞くらいになったらペースが落ちてきて、ワッカに入って90㎞を折り返したら、後ろから関谷さんが猛烈な勢いで迫って来るのが見えたの。その頃はもう頭がボーっとしていて、何も考えられずに走っていたのだけれど、「あ、これヤバい」と思って目が覚めて、一生懸命に逃げたの。
関:その時の差ってどのくらいだったの?
教:多分10分差くらいだったから、2㎞くらいあったのかなぁ。
関:残りの距離を考えればセーフティー・リードにも思えるけれど、油断していると何があるか分からないものね。結果的には8時間切りまであと少しというタイムでしたが、途中であわよくば切ってやろうという気持ちにはならなかったの?
教:うーん、どうだろうね。とりあえずこの時は追いつかれず、無事にゴールできて良かったとしか思わなかったですね。
余談だけれど、サロマ湖って正式なゴールの手前に計測用のマットが敷いてあるところがあって、この時はそこがゴールと勘違いして一瞬止まったの。何だか随分チンケなゴールだなぁなんて思いながら。そうしたら沿道の人が「まだまだ。ここはゴールじゃないよ!」って慌てて教えてくれて(笑)。
関:それが無かったら8時間切れていたとか(笑)。
教:いやいや。せいぜい1秒2秒の話だけれど、みんな私が急に止まったからビックリしたみたい。
関:そりゃあトップのランナーがゴール直前で止まったら驚くよね。「トラック勝負」みたいなレース展開じゃなくて良かったね(笑)。
l ‘01年~’02年。ハセツネとサロマ
関:‘01年はその後10月のハセツネに初めて参加していますが、これに出たキッカケは?
教:当時は「国体選手」だったわけじゃないですか。それでハセツネは都岳連が主催している大会だから「出ても良いよ」という感じで言われて。
関:招待選手という扱いで?参加費もいらないって事?
教:うん。「強化選手として出て良いよ」って感じ。「国体の強化選手なんだから出なよ」みたいな。
関:じゃあ流れで、「出なきゃいけないのかな」って感じ?「出ても良いよ」と言うより「出ろ!」という事か(笑)。このハセツネにはどういうモチベーションで臨んだのかな?サロマ湖みたいに「このくらいのタイムで走れば優勝できるぞ」みたいなのはあったの?
教:でも、やっぱりこの山岳の70㎞という距離感がよく分からなくて。ちょうどその前の8月にアドベンチャーレースの北米大会に行ったの。メンバーの中に必ず一人女性が必要だという事で。そこでハイドレーションとか買わされた(笑)。そこで色々とハセツネに向けての準備っぽい事ができたかな。でもやっぱりああいう長い距離の山のレースってイメージが湧かなくて。実際に走ってみると考えていた事と全然違ったんだよね。結局途中でシャリバテ(ハンガーノック)みたいになって、動けなくなった。そして大岳山(約55㎞地点)の辺りで道に迷っちゃってグルグルしていたら、(間瀬)ちがやさんに追い着かれて、その後の下りであっという間に見えなくなっちゃった。
関:僕、トレイルランナーの事には疎いのだけれど、間瀬ちがやさんって名前だけは聞いた事がある。この頃、ハセツネ優勝の常連だった人だよね。間瀬さんと走るのはこれが初めてだったの?
教:当時は国体の練習がてらに短い距離の山岳レースにも出ていたのよ。みたけ山登山競走(15㎞)とか。そこにちがやさんも来ていて、そこで初めて会ったと思う。ちがやさんの方は「あんた誰」って顔していたかも(笑)。
関:じゃあ、間瀬さんも櫻井さんの事は認識していたのだね。サロマ湖でも優勝しているし、けっこうマークされていたのかな?結局この年はそのまま間瀬さんが優勝して、櫻井さんは27分差の2位(10時間42分29秒)だったのですね。
翌‘02年も6月にサロマ湖。10月にハセツネと、’01年と同じスケジュールで両方とも参加していますね。
教:ウルトラ的にはそうですね。
関:もちろんその合間にはフルマラソンや短い山岳レースなども入っているのだろうけれど。この‘02年のサロマは僕も走っているから、終盤のワッカでの堀田(麻樹子)さんとのデッド・ヒートも間近で見ているのですよ。その時は堀田さんが逃げて、櫻井さんが追う展開でした。
教:あぁ、堀田さん!確かどこかで抜かれたのかな?でも彼女は安部さんが優勝した‘00年も7時間30分で走っている実力者なので、堀田さんが来たら勝てないかなと思っていました。
関:最終的に堀田さんは7時間30分で優勝し、櫻井さんは6分差の2位でしたね。レベルの高い勝負を間近で見させてもらって、すごく興奮しました。
そしてその年のハセツネで優勝するのですが、もちろん前年走っていてコースも分かっているし、今度こそやってやろうって感じで臨んだのですか?
教:そうですね。
関:この時は大会史上初めての10時間切りとなる9時間47分で走っていますが、最初からこのくらいのタイムを狙っていた?
教:そうですね。前の年は第3関門(58㎞)の辺りでガクッと落ちていたから、ここをちゃんと走れればこのくらいかなというのはあった。前の年はまだ「走りながら食べる」という事に慣れていなかったのだけれど、この時はいっぱい色々なものを持って行った。おにぎりだとか甘いもの、しょっぱいもの、色々と準備していた。それで最後まで身体が持ったというのがありましたね。
関:そしてこの優勝から伝説が始まるのですね!
l トラック100㎞世界記録誕生秘話
教:でも‘00~’02年まで色々な事がバンバン入って来ていたから、この頃はもうアップアップな感じだった。
関:それでも翌‘03年はサロマ湖、ハセツネの他に野辺山100㎞とイタリア(ルパトティシマ)で開催されたトラック100㎞の世界大会に出ていますね。しかも全て優勝しているし、世界大会ではトラック100㎞の世界記録も作っている。
教:あぁ。‘01年にサロマ湖で優勝した時、その年と翌年の世界大会参加を打診されていたのだけれど行かなかったんだよね。’01年はサロマの2か月後で予定も入っていたし、’02年はサロマの直前の日程だったから、それも無理だと思って。それでもし‘03年にお声が掛かったら行きたいなと思っていたら、このトラックの話が来ちゃったのね。
関:じゃあこれは毎年行われている通常の世界大会とは違うの?
教:世界大会は別にあったの。台湾だったかな?
関:ああ、そうだ。11月に台南でやったよね。
教:「その前に9月にトラックがあるのだけれど行かないか」って、‘02年から言われていたのよ。IAU(国際ウルトラランナーズ協会)の理事だった小林荘平さんから。この大会はドン・リッチ(イギリス)さんがトラック100㎞の世界記録(6時間10分20秒)を作ってから四半世紀、25周年になるのを記念して開催されたの。結局こちらに出たから、世界大会は3年続けてキャンセルになった(笑)。
関:ドン・リッチさんの記録は知っていたけれど、そんな昔の記録だったのだね。リザルトを見ると完走者は12名になっているけれど、トラックだから少数精鋭でやったのかな?
教:ところが、スタートの時はかなりの人数がいたのよ。だけど50㎞になったらサーっとみんないなくなっちゃって。何でも、この後台湾の世界大会が控えているから、みんな練習がてらに来ていたみたいで。
関:なるほど。陸続きのヨーロッパ各地から集まっていたんだ。そんな中で7時間14分06秒という、いまだ破られていないトラックの世界記録を作ったのですね。
教:このレースは夕方くらいにスタートして、ゴールが夜中になるのよ。最初の方はけっこう盛り上がっていて、応援とかもあったのだけれど、大体みんなが50㎞終わる頃になったら誰もいなくなっちゃって。何が起こったのだろうって感じで(笑)。事情がよく分からなかったから、みんなリタイヤしちゃったのかなって思ったりして。
関:日本からサポーターとかは同行しなかったの?
教:サポーターはいなくて、もう一人日本から女性ランナーが同行していたのだけれど、彼女も途中で体調不良になって、救急車で運ばれて行っちゃってね。結局日本語を喋れる人が誰も居なくなっちゃって、その後は今何周走っているのかも全然分からない状態で(笑)。
関:え、そうなの?途中経過とか何かモニターで表示されたりしなかったの?
教:多分イタリア語なのだろうけれど、場内アナウンスで何か喋っているけれど、何言っているのか全然分からなくて。あと何周したらいいのかも分からなくて、この時間だからあと何周くらいかなって感じで(笑)。しまいにはその辺の人に英語で「あと何周なの?」って叫びながら走っていた(笑)
でもその時、ガラガラでスカスカのトラックで最後まで一緒に走っていたハンガリーのEdit Bercesさんから、追い抜く度に「Beautiful」って声を掛けられたのがとても嬉しかったのを覚えている。
関:あぁ、Editは本当に良い人ですね。僕も色々なレースで一緒になったけれど、いつも気さくに声を掛けてくれる。でもそんな状況でよく世界記録までたどり着いたね。因みにこのレースに臨む前に世界記録が何時間何分とか分かった上で、それは超えてやろうとか、そういう意気込みとかあったの?
教:全然。トラックの世界記録とか、そんなカテゴリーがある事すら知らなかったもの。
関:じゃあ終わって、「7時間14分で、あなた世界記録ですよ」って言われて、「は?」って感じ(笑)。
教:「え、そうなるの?」みたいな(笑)。
関:でも、その記録が20年間破られていないのだから、本当に凄いよね。
教:後から考えたら、私トラックの練習とかもしないで臨んでいたから、1周どのくらいで走ったら良いとか何も考えていなかったのね。そのくらい確認してから行けよって今になって思う。
関:いやぁ、聞けば聞くほどこの世界記録誕生秘話って凄いねぇ(笑)。
l 長期の休養。そして復帰
関:この‘03年の10月、僕は櫻井さんと初めて会っているのだけれど覚えているかな?ハセツネの数日前だけれど、都内のパタゴニア・ショップでアメリカから来日していたスコット・ジュレクと、優勝した石川弘樹さんのトークショーがあって、井上明宏さんと一緒に聴きに行ったのだけれど、そこに櫻井さんも来ていたよね。
教:あぁ、そんな事もあったね。そこに関家さんもいたのだっけ?ゲストで喋っていた?
関:ただの聴衆で来ていたんだよ(笑)。井上さんに誘われて。確かそこで井上さんから「この人、先月のトラック100㎞レースで世界記録を出した櫻井さんです」って紹介されたのだと思う。
教:あぁ、思い出した。トークショーの後みんなでお茶して。私も井上さんに誘われて行ったんじゃなかったかな。
関:それと、練習日記を調べ直したのだけれど、櫻井さんと初めて一緒に走ったのが翌‘04年2月に宮沢湖の周辺でやっていたトレイルの練習会だった。
教:よく覚えているね(笑)。
関:当時はマメに練習日記付けていたからね。確か16㎞くらい走ったのだけれど、スタート直後に僕が櫻井さんの前に出ちゃったから、抜かれるのも嫌だなと思って最後まで必死に逃げたのを覚えている。だってずっと真後ろにいるんだもん(笑)。遊びで来ていたのになんでこんなに苦しい思いしなきゃいけないんだって思ったよ(笑)。
でもこれ以降、‘04年は全くレースに出なくなったのですよね?
教:そうそう。トラック100㎞の辺りから「このまま行くとヤバい」と思っていて、とりあえず申し込みが終わっているハセツネまでは頑張ろうと思っていたのだけれど、それが終わったら「もう無理」って感じだった。
関:‘04年の夏くらいだったと思うけれど、「最近櫻井さん見かけないけれどどうしているの?」って知り合いに聞いたら「土いじりやっているよ」って言われて、「は?」って感じだったのだけれど、実際はどうだったの?
教:土いじりは前からやっていて、市民農園を借りてせっせと野菜を作っていたの。
関:あぁ、マラソン止めて土いじりを始めたという訳じゃなくて、以前から趣味でやっていたんだ。今もやっているの?
教:今はやっていないけれど、‘00年くらいから府中市内の畑を借りて、’12年くらいまでやっていたね。
関:この時は全く走っていなかったの?
教:そうだったね。と言いつつも誘われたフルマラソンくらいのレースにはちょこちょこ出た事あるけれど。とにかくウルトラマラソンに関しては‘03年で終わったのよ。
関:第1章が終わったという感じ?
教:もうボロボロだったのよ。
関:それは精神的に?どこかを痛めていたとか?
教:疲労よ。疲労。精神的というか、とにかくもう寝ていないしさ、休みたい。休みたい。休みたい。という感じ。
関:それが‘05年まで続いたんだ?でもこの’05年のハセツネで2年ぶりにレースに復帰して、またまた大会記録を更新して優勝していますね。ここで復帰したのには何か理由があったのかな?
教:そうね。うーん。何考えていたのかしら。
関:聞いたところによると、「やりたい事が見付かった」と言って走る事を再開したという話だけれど、そのやりたい事って何だったの?
教:やりたい事というか、とりあえず休んだ時に「世界大会やり残しているな」って思ったの。3回チャンスがあったのだけれどまだ行っていなかったから、1回くらい行っておきたいなって思ったのは確か。
関:なるほど。でも実際に行ったのは‘07年だけれど、それに向けての再スタートがこの’05年のハセツネだったんだ?
教:そうだったのかなぁ…。とにかく休んだ時に「もうちょっと行けるかな」という気になったのだと思う。
l 最初で最後の24時間走
関:そして‘06年になって6月に「あきる野24時間走」にチャレンジする訳ですが、これはやっぱり井上さんに誘われたのですか?
教:これ何だったのだろうねぇ。確かにそれまでにさんざん井上さんに誘われていたけどね…。
関:何でやっちゃったのだろうみたいな(笑)。これ走る時に、ある程度これくらい行けるんじゃないかとか、想定していましたか?
教:なんか「時速10㎞が大変なんだよ」とか言われていて、「ふうん」みたいな感じで、あまりイメージができていなかったかな。
関:確か100㎞の通過が8時間ちょっとくらいだったと思うので、前半は時速12㎞を上回るペースで走っていたよね。
教:(他人事のように)へぇー、だいぶ速かったね。
関:大会スタッフとして井上さんと一緒に見ながら「これ世界記録出るのではないか?」と話していたんだよ(当時の世界記録はEdit Bercesの250.106㎞)。でも後半かなり辛そうで、何度も立ち止まっては嘔吐していたよね。あぁ、櫻井さんでさえこんな状態になるのだから、24時間ってやっぱり過酷だなと改めて思った。
教:本当?何度も嘔吐していた?確かに眠いし、足は痛いし、辛かったのは覚えているけれど、そんなひどい状況だったんだ…。
関:ひょっとしたら途中で止めるのかなと思っていたのだけれど、最後に復活して2時間くらい走り続けて、何とか240㎞を超えてきたんだよね。残念ながらこの大会は未公認だったのだけれど、それでも結果241.596㎞は当時の世界歴代5位に相当する記録だったし、アジアの女性として初めて240㎞を超えた偉業でしたね。
教:でも改めて、何でこれ出たのだろうね(苦笑)。
関:実際に走り終えて、もうこんな事2度とやらないって感じだったのですか?
教:うん(笑)。
関:僕としては…。と言うか、多くの人が同じ事を考えたと思うのだけれど、2回目をやったら絶対に世界記録を更新できたよね。
教:いや、全然無理無理。
関:だって1回目は苦労したかもしれないけれど、2回目はその経験を活かして、ペース配分とかエイドの補給とか分かるじゃん。
教:もう2回目をやろうなんてつもりは全く無かったね。1回で充分だと思った。
関:その辺がねぇ…。他人事ではあるけれど、櫻井さんの一ファンとしては見てみたかったなぁという思いが強いんだよねぇ。あきる野24時間走が公認大会にならなかったのを受けて、その年の12月から神宮外苑で24時間走の公認大会が始まったのだけれど、この辺りにチャレンジしてほしかったなぁ…。
l 関家良一の末代までの自慢話(笑)
関:その後8月に鶴沼のレースに出ていますね。夜の100㎞。
教:それ、夜の大会だったっけ?
関:確か夜中の12時にスタートだったのだよね。櫻井さんは覚えていないかもしれないけれど、僕もこれに出ていたから。
教:言われて思い出した。いつも夜スタートの大会だったっけ?
関:いや。その時だけ50回目の記念大会という事で夜中にスタートだったの。僕はこの時の事をすごく良く覚えているのだけれど。何故かというとずっと櫻井さんと一緒に走ったから。
教:えー。そうだったんだ。
関:当然櫻井さんが先行して、背中も見えないくらい差が付いたんだけれど、70㎞くらいで追い着いて。その後櫻井さんが僕の後ろに付いてくる感じだった。走りながら「世界の櫻井を引っ張っているぜ」って思いながら自分自身で感動していた(笑)。そのままゴールまで30㎞並走したのだけれど、僕はこの時まだ余裕があったから、どういうゴールにしようかって考えていたの。
このまま櫻井さんと手を繋いで一緒にゴールしようか…。でもそれじゃあウルトラマラソンの女王に対して失礼だなぁ。
じゃあ櫻井さんに先にゴールしてもらおうか…。背中をポンって押しながら「櫻井さん、先に行きなよ」なんて言ったら格好良いなと(笑)。でも後で記録を見た人から「櫻井さんに負けてやがる」なんて言われるのも癪(しゃく)だなぁ。
結局それで「櫻井さん、先に行くね」って声を掛けて、1分くらい前にゴールしたんだよ。
教:へぇー。そうだったんだ。
関:こう見えても女王に対して色々と気を遣ったんだよ(笑)。でも櫻井さんにとってこのレースはその1か月半後に出るハセツネの練習みたいな感じだったんでしょ?
教:そうだったっけ?この辺りの事ってあまり覚えていないなぁ…。
関:でも、「櫻井さんの100㎞を引っ張ったぜ」というのは、僕の中で末代までの自慢になりましたよ(笑)。
l 頑張ってきた自分自身に対する責任感
関:ここに一枚の新聞の切り抜きがあるのだけれど。覚えているかな?
教:ああ、日刊スポーツの記事。後藤新弥さんが書いたやつだね。
関:この‘06年のハセツネで優勝した時の事が大きく取り上げられているのだけれど。記事の中にもあるけれど、この時は途中で捻挫して、そんなアクシデントに見舞われながらも大会記録で4回目の優勝をしたんだよね。
教:あぁ、この時に捻挫したんだぁ。毎回毎回色々な事が起こるからねぇ。
関:記事によると「9時間10分50秒。2位に1時間以上の差」。「両手に血、肩も負傷」って書いてあるけれど、この辺は当たり前なの?
教:そのくらいは当たり前だよ。ちょっと手のひらを付いただけでも擦り傷になるもの。
関:僕はトレイルの事はあまりよく分からないのだけれど、そんなものなんだ。
教:でも捻挫は痛かったね。夜にゴールしたんだけれど、家に帰れないかもって思うくらいパンパンに腫れちゃって。誰の車だったか忘れたけれど、後部座席に横になって、前のシートに足を上げて朝まで待った。
関:アイシングとかはしなかったの?
教:痛い痛いって言いながら何していたんだろうね(笑)。それで朝になってから「鍼灸の先生がいるから治療を受けた方が良いよ」って言われて、お灸をやってもらったら腫れが引いたの。
関:冷やした方が良いのかなと思っていたのだけれど。
教:熱で熱を抜くんだって。それで歩けるようになって家に帰れたの。
関:記事には序盤の22㎞で左足首を捻挫したって書いてあるけれど。
教:そうね。でも練習の時からクセにはなっていたの。新聞記事にも書いてあるけれど、この4年前に多摩川で練習していたら、花火大会の雑踏に押されて土手から落ちちゃって、そこから「捻挫グセ」みたいになっていたの。でも走っている時はそれほど痛みを感じていなかったのね。夢中で走っていたから。
関:じゃあ、その捻挫はレースを止める理由にはならなかったのね。
教:その先で他に何かアクシデントがあったら止めていたかもしれないけれど。毎回このレースを完走したら走るのを止めようと思っていたから、ここで足が壊れて走れなくなっても良いくらいの気持ちだったのだと思う。だから途中でリタイヤしたらまた来年も来なければならなくなるから、ここで燃え尽きようって感じだったんだね。
関:このレースの事は他にも「月間ランナーズ」で取り上げられていて、確かその中に櫻井さんの言葉で「このレースに臨むに当たって苦しい練習に耐えてきた。私にはその自分自身に対して走り切らなければいけない責任がある」というような事が書いてあったのね。僕にはその言葉がガツンと心に刺さって「あぁ、これか」と膝を叩いたのを覚えている。走っていて途中で苦しくなるとどうしても言い訳を作りたくなるじゃないですか。肉刺ができちゃったとか、あっちが痛いこっちが痛い、胃がやられて食べられないとか。でもその瞬間だけじゃなく、今ここにいる自分は過去から積み重ねてきた継続性の中にいるわけで、ちょっと辛いくらいの事で安易に止めるのは、過去の自分に対する裏切り行為なのだなと思ったの。この記事に書いてあった言葉は自分自身覚えていますか?
教:あぁ、何か言っていたねぇ。でも実際には走れないほどの捻挫ではなかったわけじゃない。例えば骨が折れたら無理だと思うけれど、走ろうと思えば走れるのだから止める理由にはならなかったという事。あと、この後にもっと大きな目標でも控えていたら止めていたかもしれないけれどね。
関:いやぁ、僕はその記事を読んで自分自身反省しましたよ(笑)。だからその後のレースでは途中で苦しくなったら「頑張ってきた自分自身に対する責任」という櫻井さんの言葉を思い出して気合を入れ直していた。まさに「ウルトラマラソンの真髄」とも言うべき名言だなと思ったの。だから改めて言うけれど、2回目の24時間走に是非挑戦してほしかった。この根性があったら絶対に凄い記録を出していたと思うよ。
l 走り始めるとスィッチが入る
教:「この根性」と言えばさぁ、最後に走ったサロマ湖の時も凄くてね。
関:’07年のサロマ湖ですね。7時間16分で優勝している。
教:この時に肉離れみたいな感じになったの。55㎞過ぎからの上り坂があるでしょ。そこを走っている時に左の太腿に500円玉くらいの違和感があって、「あ、ヤバい」って感じて。
関:それは以前にもあった違和感だったの?
教:急に「キュッ」って感じで来て。これは止まっちゃいけないと直感して走り続けたの。案の定、ゴールして止まった瞬間にこの(500円玉大の)塊が一気に脚全体に広がって、硬直しちゃって動けなくなった。
関:へぇ~。途中で止まっていたら完走も危うかった感じだね。
教:走っている間は血が循環しているから良いのかもしれないけれど、止まった瞬間そこに肉の塊が落ちてくる感じで、一気に足が腫れて走れなくなった事が以前もあったから、とにかく止まらないように走り続けた。
関:エイドでも止まらないの?
教:止まらない。止まったらアウト。ストレッチなんかやっている場合じゃない(笑)。
関:100㎞だったら、僕なんかはエイドで必ず数10秒は止まっているね。まあ、櫻井さんとはレベルが違うけれど(笑)。さっきからこうやって喋っていても普段は飄々とした感じで、櫻井さんから熱いものを全然感じないのだけれど、走り始めるとスィッチが入って、周囲がビックリするような記録を平然とやってのける。例えば走り終わって振り返った時に、「あれは本当に私だったの?」って思う事はある?
教:あ、それはあるね。私全然知らないみたいな(笑)。あとゴールした時に「次はこうしたらもっとこうなるんじゃないか」っていう、次に走っている時の自分が見える事がある。それが見えているうちは止められないと思っていた。
関:それは1年後の同じレースの事?
教:それもあるし、次に控えているレースの時もある。「次はもっとこうすればこうなるはず」っていうのが見えているうちは止められないし、やりに行かなければいけないという思いもあった。逆に「もうこれで終わり」という、止める自分も見えるのよ。それで次はないなという感じになった。
関:ちなみにその「次はこうなる」というのは24時間走った時には見えなかったの?
教:見えない、見えない。
関:「次にこうすれば250㎞行くんじゃないか」とか。
教:全然見えない(笑)。
関:見えてほしかったなぁ。2回目は絶対に250㎞走れたと思うよ。ある意味それは世界的な損失ですよ(笑)。
教:でも今の世界記録はもっと伸びているんでしょ?
関:今は270㎞超えちゃった。でも当時は250㎞だったし、櫻井さんだったらとんでもない記録を出せたと思うし、やっぱりそれは見たかったなぁ。しつこくて申し訳ないけれど(笑)。
l 最初で最後の100㎞世界大会
関:僕は自分自身でけっこう「持っている」人間だなぁと感じる事があるのだけれど、櫻井さんは自分でそういう事を感じる事ってありますか?例えば「なんでこのタイミングでこういう事が起こるのだろう。私ってツイているかしら」みたいな。
教:そういう事はあるよね。何かよく分からないけれどあると思う。
関:やっぱりね。さっきから聞いていると「この人も持っているなぁ」ってすごく感じた。例えば僕は先行逃げ切りのタイプじゃないから、いつもマイペースで後ろから追い上げるのだけれど、先行するランナーを見ながら「この人はこれから落ちて来るな」というのが何となくだけれど分かるの。それで実際にそういう展開になって、最後に僕がトップに立つと「やっぱりね」という感じ。「持っているなぁ」って自分自身で感心する事がある(笑)。
教:似たような事が‘07年の100㎞世界大会の時にあった。スタートしたら7時間を切るようなペースで走る先頭グループができていたのだけれど、彼女たちが見える位置で私も付いて行った。私は10㎞42分のペースで走っていただけなのだけれど。でも後ろからその人たちの走りを見ていたら、ちょうど30㎞のところで空気が入れ替わったように感じて、前から落っこちてきた。「もしかして私ひそかに狙い撃った?!」って感じがした…。
関:じゃあ30㎞くらいで先頭に立ったんだ。その瞬間に「私勝っちゃうかも」なんて優勝が見えていたんじゃない?
教:確かに見えていたかも。何となくだけれどね。周りの人は関係なく、ただ10㎞42分のペースを守っていただけだったから、トップに立った時も特に慌てなかった。
関:その世界大会(Winschoten=オランダ)は1周10㎞の周回コースですよね。その42分ペースで何キロくらいまで行ったのですか?
教:確か80…。90㎞くらいまで行ったのかなぁ。最後の方で27秒出ちゃった感じ(結果は7時間00分27秒だったので、7時間切りに27秒遅れたという意味)。
関:最後の方はもうダントツだったわけでしょ。結果的に2位と26分も差が付いているし。優勝は確定的で後は記録に集中できた?
教:最後の方でバイクのカメラマンや、沿道にいた応援の人たちが私に向かって叫び出したの。どうやら「このまま行けばAnn Trason抜けるぞ」って言っていたみたい。
関:あぁ、Ann Trason(アメリカ)って安部友恵さんに抜かれるまで100㎞の世界記録を持っていた人だね。
教:そう、7時間00分48秒。「このまま行けばAnn Trasonのコースレコード抜けるぞ」って叫んでいたみたいね。
関:へぇ。Ann Trasonの記録もWinschotenで出されたんだ(1995年の世界選手権Winschoten大会で輩出された)。でも当然時計を持って走っていたのだろうから、コースレコードよりも7時間切りの方を意識したのでしょ?
教:明確に7時間切りというよりは、あわよくばという感じ。元々それまでの自己ベスト(7時間14分)を切って7時間10分くらいで行ければ良いなと思ってスタートしていたから。どこかでペースが落ちるだろうと思っていたら案外90㎞まで持ったんだよね。最後は7時間切りは無理だろうなと思っていたけれど、7時間切りを目指していたわけじゃないから、逆に7時間10分の目標がクリアできて「儲けもの」くらいな感じだった(笑)。
関:調子も良かったんだね。
教:調子も良かったし、コースも走り易くて良かった。
関:Winschotenってどんなコースなの?
教:町中を走るのだけれど全体的に平坦で、誰かのお家の庭みたいなところもあって、バーベキューしながら観戦していたり、雰囲気はのんびりとした感じ。あと石畳で足を取られないように気を付けてと言われていた。あと天候も良かったから、本当にベストなコンディションの下での記録だったんだよね。
関:じゃあ自分の持っているものが出し切れて、悔いのない走りができた感じ?
教:でも後からみんなに「あと27秒、どうにかならなかったのか」って言われると、客観的に見て「あぁ、もうちょっと頑張れたのかなぁ」って思うのだけれど。でもその当時はその数十秒を何とかしようという気持ちは全く無かったよね。
関:結果的に安部友恵さんに次ぐ世界2位の記録だったのですが、もうちょっとで「史上二人目の6時間台」の記録になっていたわけじゃないですか。じゃあ次は7時間切り目指して頑張ろうって気持ちにはならなかったの?
教:全然。だってあれだけの好条件で出した記録だし、あれ以上のパフォーマンスは二度と出せないと思っていたから。
関:例えばオリンピックの選手が銀メダルを取って、また4年後にその上を目指す時に「忘れ物を取りに行く」とか、そういう話をよく聞くじゃないですか。
教:その意味ではWinschotenで忘れ物が取れたからもう良いの。世界大会に出て、自己ベストも更新できたから。それ以上のものは何も望んでいなかった。
関:欲が無いというのか…。実際にこの後‘08年はサロマ湖にも世界大会にも出ていないし、どうやら記録を狙って走ったレースはこのWinschotenが最後だったみたいだよね。でもひょっとしたら、どこかでチャレンジしていたらまだ記録を伸ばせていたかもしれないよね?敢えてそれをしなかったのは何故?
教:例えば翌年の世界大会に出たとしたら、当然周りから7時間切りを期待されたりするわけじゃない。それも何だか面倒くさいし、私が目指しているものはそこじゃないから。
関:うーん。やはりその感覚が我々凡人とは違うんだなぁ(笑)。今日は櫻井教美ワールドにどっぷりと嵌り込んだ感じで、とても新鮮でした。お話し伺えて幸いでした。ありがとう!
因みに‘07年100㎞世界大会の3か月後に櫻井さんはトレイルの世界大会(50マイル)でも優勝。
‘08年には5月の野辺山100㎞、8月の奥武蔵75㎞、10月のハセツネ71.5㎞の3大会に出場し、いずれも大会記録で優勝している。
’09年以降も誘われた大会に数レース出場したようだが、しっかりとした目標を持って、練習を積み重ねて臨んだレースは‘08年が最後であり、まさに頂点を極めたところで「静かにシューズを脱いだ」ようだ。
この伝説のランナーの実績をどう捉えたら良いのか?
私なりに思索に耽ってみたが、対談の冒頭で櫻井さんが語っていた「最初に走り始めた時の『このままどこまで行けるのだろう』という感覚が大事」という一行がキーワードになるのではないかと思い当たった。
櫻井さんについての私の考察は、また機会を改めて紹介したいと思う。